第2537話・・・元監督・現教頭の視点(8)
2015年 11月 18日
【すべてを失う前に・・まだ間に合う】
・選手がやめると言い出した時
・保護者から批判された時
・指導者の方針の足並みがそろわないとき
指導していると突然、いろいろな問題がふりかかってきます。私も突然、不幸のどん底で何度も苦しんでいました。上のような問題が発生した時、やはり、自分の指導法やスタイルに問題がありました。勝ちにこだわり過ぎていたり、周囲がみえなくなっていたり、人のせいにしてみたり。
問題のベクトルは、自分から発生していることがほとんどでした。
けど、指導していると、それとは違った問題にも遭遇しました。
・チームが強くなり出した時、特に「優勝」という名のつく魔力
・いろいろなチームから練習試合を申し込まれるようになった時
・周りから「あの監督はすごい、あのチームは強い」というまなざ
しで見られるようになった時
こういったときに問題発生することのほうが多かったように記憶しています。強くなると、別人格のような指導者に変身してしまうのです。
①暴言が多くなり、いつもピリピリしている
②目つきが悪く、暗い
③説教が多く、話もくどくなる
④練習がワンパータン
⑤過去の美談を語る
うーん、自分もこんなことがありました。そして、こんなときの口癖は「俺はバレーに全てを懸けている」「俺はバレーに命懸けで取り組んでいる」という自虐的な台詞でした。
けど、こんな時代は、試合が怖くて怖くてたまりませんでした。格下のチームに負けたらどうしよう・・・。練習試合でセットをとられたらどうしよう・・・・・。こんなことばかりが脳裏を横切っていました。強くなっていくことで自分を見失っていました。
そんなときに私が草野先生からかけてもらった言葉があります。
「バレーに命をかけたらあかん。バレーが好き、このぐらいでいいんや。家庭があって仕事があって、そして、バレーがある」
有り難い言葉でした。人間は何かを犠牲にしていると思うと、私のように器の小さい人間は、人に恩着せがましくなってしまいます。俺は○○なのに・・・。お前たちはみたいな・・・・」、こんな台詞を子どもに向かって言うようになります。
おそらく、このブログを読んでくださる方の中にも、周囲からの勝てのプレッシャーで重圧を背負って、目を吊り上げて体育館に行っている監督さんもいるはずです。けど、そういう時に、体罰などは起こります。
私が見てきた体罰指導者とは、ある意味、勝てのプレシャーから逃げずに向かっていた人たちでした。ものすごい情熱のある人たちばかりでした。けど、その情熱のベクトルがどこかで狂ってしまうのです。
今からでも間に合います。もう一度、自分の指導法をふりかえってみてください。
ベクトルが狂っている時代、女房に「パパのバレーをしている時の目は、人でも殺しかねないような異常な目だよ」と指摘されました。「人でも殺しかねない」、オーバーな表現と思いましたが、体育館に入る前に鏡を見ると、いやーな人相になっているなあと自分でも感じました。そこから、手鏡をもって、よく見るようになりました。
小学生は恐怖という武器でおさえつけようとする大人には無力です。怖いから耐えようとします。そして、心が歪んでしまいます。そして、その歪みは一生心の傷として残ります。
草野先生のブログは、自然体を学んでいる人も、あるいは対極的な指導をしている人も見ています。また、その中間で悩んでいる人たちも見ています。
全てを失ってから気づくのではなく、今、気づいていただければと思います。まだ、間に合います。そして、その先には、子どもたちの笑顔と、バレーの指導をしてよかったと心から感謝できる未来の自分へとつながっています。