第2250話・・・ふくろうは黄昏に飛び立つ
2014年 04月 24日
ミネルバのふくろうは黄昏に飛び立つ
ちょっと前まで哲学ブームだった(ほんまかいな?)という。今もかな?(わからない)
哲学のことはよくわからないがソクラテスの名前くらいは聞いたことがある。そもそもなぜ哲学がブームになったのかと云えば有識者曰く。それは「時代の危機的状態」に対する「反応」だそうだ。昔から哲学は安定や繁栄の中ではなく、それまで当たり前だった世界が崩壊してきたときに現れてきたとか。そういえばかの「野鴨の哲学」も“安定・安楽が人間堕落の最大の原因だ”と言ってたので合点、ガッテン!
「ミネルバのふくろうは黄昏に飛び立つ」という言葉は
・ヘーゲルの言葉で、「法の哲学」の序文の中に登場(自分は読んだことないが)。
・黄昏(たそがれ)とは、時代の終わり、何かが変わるとき
・ミネルバ―とは、ローマ神話に出てくる賢い女神のことらしい。
・フクロウは、夜になって飛び立つ(時代の終わりに飛ぶ) なぜ?
(なぜ時代が終わったのか、次は何をすべきかを、あの大きな目で見て総括する)
つまり、
こういう意味をかみ砕いて、我々に当てはめてみよう。
・リストラされそう・・・・・定年退職が近づいた・・・・チームが潰れそう・・・監督を首になりそう・・・・顧問を外されそう・・・部員が減った・・・新入部員がゼロ・・・・どうしよう!・・・・大変だ!・・・・日常生活を見渡しても大きな危機から小さな心配事まで様々なことが起きている。これもひとつの「危機的状況」である。こういった危機的状況を目の前にしたときに、その解決策としてこの言葉が活きてくるのだ。例えばこういう例がある。昔、バレーボールの強かった「富士フイルム」という会社があった。会社のライバルは米のコダック社。コダック社のフイルムは感度が高く、暗い場所でも撮れていたのでわれわれもよく使っていた。しかし2000年前後からデジカメの登場で、フイルムの時代は終わりを告げた。結果、時代の変化についていけなかった王者コダックは2012年、とうとう経営破たんし、富士フイルムは生き残った。なぜそうなったのか・・・ここに「一つの時代の終わりを迎えた時何をすべきか」のヒントが隠されている。
それはこうだ。コダック社は「フイルムがダメだから」との理由で事業転換を実施したがそれが失敗。一方、富士フイルムは「フイルムがダメだから」とは考えなかった。ここが分かれ目になったようだ。ダメなフイルム事業から撤退して、新しい事業をしようとは考えなかったのである。富士フイルムが考えたのは自社の強みを考えた。自社の強みはフイルムそのものではなく「モノを写す技術」だと考えたのである。その結果、モノを写す技術を活かした「ヘルスケアー企業」が生まれたのである。世の中は自社の本業だったフイルム事業が壊滅的な中、富士フイルムは新たな事業で、昔以上の売り上げを確保し、新たな創業を果たしたのである。某企業も、主力商品の〇〇が売れな売るほど赤字になるので〇〇事業から撤退!と新聞を賑わしているが、ホンマニ大丈夫かいな、と思ってしまう。
われわれも、ついつい「昔取った杵柄」「昔の人脈」「昔の肩書」「昔の実績」「昔の・・・・」等々にしがみつきたくなるものだ。その道を歩み続けていると待っているのは「過去の人」というレッテルだけ。生涯現役の道を歩みたい人には「野鴨の哲学」と「ミネルバのふくろうは黄昏に飛び立つ」がおすすめのメンタルケア―である。