第1651話・・・恩
2011年 06月 03日
手脚をゼロポジションにおいて寝る姿である。
筋肉に一番負担のかからない状態。そこから両腕を真横にすると「大の字」になる。
そこで子供たちに向かって
「恩を感じる心とは、こうして大の字になって伸び伸びバレーボールができるのは
誰のお蔭かなと思う心のことだよ・・・・」と自然体バレー塾でよく説明していたことがある。
最近、人に言う前に自分のことを考えてみた。
自分は、日ごろ、誰に恩を感じて、そして行動に移しているのかと・・・。
そう考えると、残念ながら躊躇なくスパッ!と出てこない。
「恩を感じなければいけない」と思う人は随分といる。しかし、
「・・・しなければいけない」・・・・つまり頭では理解しているのだが
心の部分、感情の部分がそこまで熟していないようだ。
90%はそうなのだが、だが残りの10%がどうも・・・となっているのかな?
残りの10%が感情の部分。理屈以外の部分。これが邪魔している。
10のうち、9つお世話になっていても、1つのことでおかしくなることは
人間関係にはつきものだが、そうだとすれば実に寂しい。
最後の1つで、今までの9つが消え去る場面も何回となく見てきた。
大人になってからのお付き合いは時間が長いので当然こういうことが起きるのだが
それにしても情けない。どうしても直前の出来事で人の心は揺れてしまうようだ。
もったいないなと思う。
偉人伝を読むと、大概の人物が小学生時代の出会いが大きい。
母親の影響は特別にして、小学生時代にいい先生と出会った子供は
生涯を通じて「恩」を感じ、それに報いるために努力を重ねていく。
そういうパターンが見える。
小学生や中学生は時間に区切られる。
必然的に別れがやってくる。
いい思いも、悪い思いもそのまま記憶に残されていく。
だからこそ小学生や中学生の指導に携わる大人の責任は重い。
他人が恩を感じるほどの施しは、無心の心が必要。
今、それが大事だからそれをやる。
自分がやりたいからやる。
けして相手に恩を求めてはならぬ。
しかし、その報いは当然自分に直接還らぬともよい。
いづれ違った形で子どもや孫に還ってくるのは歴史が語ってくれている。
これも、孫たちへのひとつの愛の形である。